森部薬師堂・出世の松(森部合戦の古戦場)
- [公開日:2011年12月26日]
- [更新日:2021年12月17日]
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森部合戦と利家
2002年のNHK大河ドラマで「利家とまつ」が放映されました。番組の中で若い頃の前田利家が、織田信長と共に戦った「森部の合戦」の場面が出てきます。
利家は、この戦いで敵の豪傑を討ち取る戦功をあげたことにより、信長に帰参を許され、後の加賀百万石の大大名になる出世の戦となりました。
信長 西美濃へ進出
永禄四年(1561)織田信長が、西美濃を征服しようと、本郷村(羽島市)より長良川を渡って森部村に進出し、斉藤龍興軍と戦いました。
この戦いは、斉藤軍6,000騎に対し、織田軍1,500騎の戦いでしたが、中でも利家はよく奮闘しました。特に、斉藤軍の重臣、結城主、日比野下野守の家来であった足立六兵衛という敵将を倒すという大きな手柄をあげました。
足立六兵衛は、美濃国では「首取り足立」と恐れられた荒武者で、後に信長が「足立の首は、城一つ攻め滅ぼしたも同然」といわせたほどの猛将でした。
この戦いで結城主、日比野下野守も討ち取られ斉藤軍は、惨敗でした。
織田軍であった森部城主、河村久五郎は敵の武将神戸将監を討ち取り、名をあげました。
織田軍の作戦勝ち
森部合戦の前年、信長はわずか2,000で今川義元の25,000の大軍を桶狭間の戦いで破りました。森部合戦でも敵に油断させ、墨俣の下宿より森部へ一気に攻めてくる斉藤軍6,000騎に対し、信長は1,500騎を三手に分けて伏せておき、沼田で動きの悪くなった敵に一斉に矢を射って攻撃し、討ち破りました。
利家の帰参
利家は、信長の小姓として仕えていましたが、信長のかわいがっていた家来を斬ったことから、怒りをかい追放されました。
桶狭間の戦いに私的に参戦し、敵の首三つをとり持参するも許されず、森部合戦で、ようやく許され帰参がかないました。誠実さとねばり強い根性で逆境をよく乗り越えました。
首実検と鎧かけ松
この戦いで、織田軍の死傷者は少なく、戦死者320余のうち、大部分は斉藤軍でした。
信長は、薬師堂近くで敵の首実検をしましたが、そのとき、鎧を松にかけたと伝えられる「鎧かけの松」が昭和30年頃まで残っていました。利家は、討ち取った二つの首を持参し、戦功が認められ、信長から300貫(約水田60町歩に相当)を増加されました。
森部薬師堂
信長が、森部合戦の首実験を行い葬った場所で、首塚とも言われ、合戦戦没者をまつる石塔があります。
また、本尊薬師如来は伝教大師作と言われています。
- 場所
安八町森部下河原2831 - アクセス方法
東海道新幹線岐阜羽島駅より名阪近鉄バス大垣駅行き「大森」バス停下車徒歩5分
薬師堂
石碑の文字
傳教大師御自作薬師如来安置
永禄四年織田齋藤両軍古戦場
安八町史跡
森部合戦の古戦場・薬師堂
永禄四年(一五六一)織田信長は西美濃を征服しようと、本郷村より長良川を渡って森部村に進出、斎藤龍興の軍と戦いました。斎藤軍六〇〇〇人に対し、織田軍一五〇〇人で対戦し、墨俣の下宿から押し寄せてきた斉藤軍を信長は味方を三手に分け、敵をはさみうちにして破りました。
この戦いで前田利家は、以前からの勘気を解かんものと、一番に敵陣に討ち入り、首級二つ信長に差し出し、ようやく許されました。従って利家にとっては出世の門出となる戦いでした。
森部城主河村久五郎らの働きにより、斎藤軍の戦死者三二〇人に対して織田軍はわずかの死傷者で大勝利でした。その首実験をしたのが薬師堂前で、戦死者が祀られています。
「鎧掛けの松」は首実験のおり、信長が鎧を掛けた松と伝えられています。現在は二代目です。
安八町教育委員会
「出世の松」植樹!
NHK大河ドラマ「利家とまつ」を記念して、信長、利家がこの地から出世していったという縁起にあやかって「出世の松」植樹しました。
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